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やまぐち探訪

やまぐちは歴史の転換舞台!

やまぐちと聞くと歴史好きの方は、壇ノ浦の戦いや大内氏、毛利元就、吉田松陰、高杉晋作、明治維新・・などいろいろな事を連想されると思います。

ご存知のように、やまぐちは本州の西の端(はし)にありながら、大きな歴史の転換舞台となってきました。少し、ご紹介したいと思います。

「貴族社会」から「武家社会」への転換

関門海峡
関門海峡
源氏と平氏の戦いは、瀬戸内海を一ノ谷(兵庫県)から屋島(香川県)へと西に戦場を移しながら進み、下関の壇ノ浦で最後の決戦を迎えました。
1185年3月24日、源義経率いる源氏の船団と、これを迎え撃つ平氏の船団の決戦は、開戦当初は関門海峡の東向きの潮にのった平氏が優勢でした。

ところが潮の流れが西向きに変わり始めると源氏が盛り返し、平氏は壇ノ浦に追い詰められ、わずか8歳だった安徳天皇とともに、一族の多くが海に飛び込み、滅亡しました。
ちなみに、戦いが始まったのは午前6時頃で、戦いが終わったのは午後4時頃といわれています。
この戦いで、700年以上続いた「貴族社会」は終わり、「武家社会」へと大きく転換しました。

「武家社会」から「近代国家」への転換

吉田松陰
吉田松陰
1830年藩士杉百合之助の次男として生まれた吉田松陰は、5歳で叔父吉田大助の養子となり、山鹿流兵学師範の家業を継ぎました。かぞえ年で11歳(満9歳)のときには藩主の前で講義を行い、藩校明倫館の教授見習となったのは、その2年前でした。

当時は幕末の歴史的転換期であり、植民地獲得をめざした欧米の国々の圧力が日本にも及んでいた時期でしたが、幕府には、これに対抗できるような実力、気力がありませんでした。
松陰は、兵学者として学問をするかたわら、江戸・長崎など諸国をめぐる旅をしたり、江戸留学などを通じて時代の流れを敏感に感じとり、いかにして欧米の国々に対抗できる日本国家をつくるかを追究しました。

1853年ペリーが来航しました。鎖国をしていた日本にとって、それまでの平和な世の中に衝撃を与えたこの黒船騒動の中で、松陰は、西洋文明を学ぶことが日本を救う道だと考え、門弟らとともに伊豆下田沖に停泊していた米艦に乗り込み、アメリカへ密航しようとしました。

当時、日本では自由に海外へ行くことは禁止でしたし、もし密航しようとしたことがわかってしまうと、死罪になるほどでした。残念ながら、松陰たちも見つかってしまい、この密航は成功しませんでした。
ペリーは、死をかけた2人の行動に心を打たれながらも、幕府との交渉の支障になることを恐れ、松陰の身がらは幕府に引き渡され、牢屋に入れられることになりました。

その後、松陰は下田獄―伝馬町獄(江戸)―野山獄(萩)―杉家―野山獄―伝馬町獄と牢屋を転々とし、1859年、志なかばにして29歳の若さで刑場のつゆと消えました。
松陰は獄中にあっても、そのたくましい生命力と志はいささかもくじけることはありませんでした。
野山獄では、1か月平均40〜50冊もの本を読み、囚人を対象に「孟子」の講義を行っています。
実家である杉家で謹慎処分の身となってからは、近隣の青少年の教育を始めました。
これが吉田松陰の「松下村塾」です。

明倫館
明倫館
松下村塾
松下村塾

松陰の教育は、読書をすすめるとともに実行を重んじ、特に個性を重視した指導を徹底しました。
その名声は世に知れわたり、多くの人に慕われましたが、「学術不純にして人心をまどわす」という理由で再び野山獄に入れられ、江戸送りになってしまいます。

塾は、その師を失い、わずか2年余りで閉鎖されてしまいましたが、松陰は獄中からもなお、手紙で塾生を激励するとともに志の継承を訴え続けました。
このように松陰は、生涯を通 じ一貫して行動の人であり、困難をものともしない不屈の人であったといえます。

彼の思想は、松下村塾での教育や遺書「留魂録」などを通じて、門下生達に受け継がれ、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋など、幕末維新の激動期に大きな役割をになった人達を育てました。

高杉晋作誕生地
高杉晋作誕生地
高杉晋作は1839年萩藩士の長男として生まれ、藩校明倫館に学ぶかたわら、松下村塾に入って吉田松陰に師事しました。晋作は、中国の上海に旅行した経験を通じて、日本が当時の清朝のように植民地化されてはならないと、強く思うようになりました。

長州藩が全国に先駆けておこした攘夷戦(外国人を日本から追い出そうという考えにもとづいて行う戦争)に敗れた後、藩主から馬関海峡の防備を任された晋作は、1863年に下級武士や庶民の中から志願者を募って奇兵隊を結成しました。
これは、藩の正規兵に対する「奇兵」の隊で、これを皮切りに、藩内では、遊撃隊、集義隊などの「諸隊」が続々と誕生しました。
これら諸隊の結成を皮切りに、藩は西洋式の軍隊を整えて倒幕戦争の大きな力となりました。1864年、晋作は下関の功山寺で兵をあげ、幕府に降伏した藩内保守派政権(保守派)を武力で追放し、倒幕政権(改革派)を樹立しました。
これが、明治維新の第一歩となりました。その後も彼は、1866年の四境戦争で幕府軍を相手に活躍しますが、不幸にも病に倒れ、27歳にして短くも波乱に富んだ生涯を閉じました。
彼の菩提は下関市の東行庵にとむらわれています。

毛利庭園
毛利萩屋敷
萩城跡
萩城跡

1863年、長州藩は、攘夷を実行するため、他藩にさきがけ関門海峡を通る外国の船を2度に渡り、砲撃しました。
しかし、翌月、近代的な兵器を備えた列強の反撃にあい、長州藩は、あえなく敗れてしまいました。さらに、1864年には、イギリス、フランス、アメリカ、オランダ4国の連合艦隊から、17隻の軍艦により下関が大規模な攻撃を受け、長州藩は、関門海峡で戦争を行うこととなりました。

この馬関戦争で外国の強さを知った長州藩の木戸孝允らは、強い統一された国家をつくることが必要だとさとっていました。同じころイギリスとの戦いから攘夷が不可能であることを知った薩摩藩は、土佐藩出身の坂本竜馬らのなかだちにより、1886年に長州藩と同盟(いわゆる「薩長同盟」)を結び、倒幕をめざすこととなりました。

馬関戦争で、長州藩は惨敗してしまいますが、講和後は急速にイギリスに接近し、それまでの素朴な尊王攘夷論(天皇を国政の中心とし、外国人は日本から追い払おうという考え)を開国・尊王倒幕論(幕府を倒し、天皇を国政の中心とすると同時に、鎖国をやめ、外国と交流しようという考え)へと大転換し、幕府との2度にわたる戦争迎えることになりました。

1866年(第2次)の幕府との戦いは、長州の四方の藩境で戦われたので、長州藩では「四境戦争」と呼びました。
この四境戦争では、幕府軍10万をこえる兵力に対し、長州軍は4〜5千程度の兵力で戦いましたが、勝利をおさめたのです。
この戦いの敗北や新しい社会を求める民衆の動きなどにより、幕府は、大政奉還(朝廷に政権を返すこと)をしました。そして、時代は明治維新へと突き進んで行きました。

このように長州藩が、幕末・維新の動乱期に示したエネルギーは、明治維新を進めるうえで大きな役わりをはたしました。
この大きなエネルギーを生み出すもととなったものの一つに、長州藩の教育水準(すいじゅん)の高さと底辺の広さがあったといえます。

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